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執筆者の写真Aya Sato

まちづくりシンポジウム・レポート【Vol.2】

"コロナウイルスは私たちの社会と価値をどう変えたのか"


 コロナ禍を機に、私たちの社会は1つの大きな転換点を迎えています。人と人が密集して住まう都市における人間の生き方に、より大きな課題を突きつけたコロナウイルス感染症。その中で、地方で生きるという選択肢に関心が向いています。


 人口減少が進む人口5千人の町、飛騨金山で「まちづくり」と「地域」の未来を考えた今回のシンポジウムでも、コロナウイルスは私たちの社会と価値をどう変えたのか、が大きな問いを投げかけました。連載第2回目のシンポジウムレポートでは、クリエイティブディレクター服部滋樹と建築家光嶋裕介が見た、コロナ禍、都市の抱える課題、そして地方が提示できる可能性とは、をダイジェストでお届けします。




司会:

この2年、コロナ禍が私たちの社会に投げかけた問題とはどういうものだったのでしょうか。私たちはそれをどう乗り越えることができるのでしょうか。そして、地方がそこに提示できる価値や解決策は何かあるのでしょうか。


効率性を追求し続けた都市がコロナで直面した根源的な課題、

お互いが依存しあう社会全体を捉え直す


光嶋裕介:

コロナ禍では「3密がよくない」と言われてますが、そもそもが密集して、密着して住まうことによって初めて合理性や効率を上げることが可能になって、都市というものが生まれてきたわけです。ここにきて都市の大前提が否定された時に気付くわけですよね、私たちが求めてきたはずの豊かさって何だったんだろうと。本来であれば自分が落ち着くはずの家という場所、そこにいることは嬉しいはずだったのに、ステイホームがこれだけ多くの人にとって辛い経験になってしまっている。


去年完成した私の最新作は、静岡に設計した三島からほど近い、桃沢野外活動センターという森の中に作った11棟の建築群からなるキャンプ施設です。この設計をしながら感じたのは、コロナ禍にあって、自然と対峙するというか、地球とともに生かされているということでした。





キャンプをすることは衣食住の住まうことだと思います。今の住宅ではボタン1つで火がつきます。でもわざわざ自分で火を起こしたり、自然の中で生活をする、コロナ禍にあってキャンプが盛り上がっているのは、そこに「生活している実感」があるからではないかと思います。

地球とか、自然の中の暮らしを考えると、山や大地、川はぱっと見は美しいかもしれない。けど時として荒れたりする、自然の怖さも知っている、生活をするということはそういうことじゃないでしょうか。



設計をしながら、どういうふうに自然と対峙するのかということを考えていくと、自然や植物はそれぞれの在り方にお互いを委ねているといいますか、1つの目的を実現するために何かの行動があるわけではない。





人間の体もそうです。例えば膝が痛い人は、痛い右膝が悪いんじゃないんです。多くの場合左腰とか左肩が悪くて、歩くときにそれを庇って歩くと強かったはずの右膝が疲弊していきます。つまり全てが体の中で依存しあっているんです。実は社会もそうした相互依存関係によって成り立っています。細かいところを見て合理性を求めるだけではなく、植物的知性といいますか、それぞれが依存しあっている全体に目を向けることが重要だと思います。



右膝が痛くなっているということは体のバランスが悪くなっているということで、社会に置き換えると、目的を共有する人同士だけで集まるのではなく、世代を超えて様々な人が集い、うまく学びをつないでいくようなそうした集合体・共同体をたくさん作って、運動会で玉入れをして勝った負けたはあっても、終わったらみんなで打ち上げができるような関係を上手く築いていける環境と人づくりが大事ではないでしょうか。



危機に向き合う人間の力をどう回復するか、

鍵は多世代が共に生活に必要な要素を見つめ直すこと


服部滋樹:

東京なんかでよく聞く話ですが、住まいは家賃も高いからワンルームで済ませている、大半が仕事で外に出ているので家には寝に帰るだけ、という方がたくさんいらっしゃいます。そこで突然コロナでステイホームと言われて、今まで90%仕事に捧げていた時間がほぼ反転して、やっと生活の中に仕事が格納される状況になったとも言えると思いますが、そこで生き方を考え直さないといけない状況に迫られています。ワンルームに閉じ込められたといってもいいと思いますが、その中で多くの人が鬱になったり病気になったりしています。本来、家にいる時間で精神的にも調子を整えて、また外に仕事に行くというルーティーンの中で、家にいることは大事なプロセスだったはずなのに、皮肉なことに家に留まること、それすら現在の社会の中で、健常者の人を病気にしてしまっているという現実があります。ということは今まで作り上げてきた、社会の構造が既に病んでいたのかもしれない。そのことは今回コロナが気づかせてくれた、とも言えると思います。




光嶋さんもおっしゃっていた自然の怖さですが、暮らしながら本来人間はそうした危機感を持っていたはずなんです。だけど都市にいると、都市が自分たちを守ってくれるものと思ってしまっているから、ほぼ危機感を感じない生活をしてしまう。だから社会に関わろうとすることがそもそもない。



だけど自然とともに生きる時には、自分も社会に参加していないとこの場所に暮らせないということが、そうした土地では前提としてあるわけですよね。少し不安な未来でも、みんながいるから見れるんだという、少しの危機感とともに生きる、前進する力が人間にはあったはずで、それを再生することが今必要ではないかと思います。





コロナを経て、世界中の人達が「新しい生活様式」という言葉を使い出しています。以前と違う暮らし方を「新しい」と呼んでいるんだと思いますが、健全な全体の利害関係をどのように考えていくのか、それが実は「新しい生活様式」ということになってくるのではないかと思っています。


じゃあそれをどうするか、ということを考えると、もう一度生活というものを考え直した時に本当に必要な要素ってなんだろうということを21世紀バージョンにブラッシュアップしていくしかないのではないでしょうか。多世代が一緒に、生活構成の中に必要な要素をもう一度洗い出していく。そのプロセスが必要になっていると感じます。





この2日ここに滞在して、金山にはそれを考えるための土台が揃っているのではないかと感じました。逆に、そう考えるともしかしたら、ここに「仕事がないと人が来ないから仕事を作らないと」というようないわゆる「まちづくり」でよくやる手法を考えるところから始めるべきではないかもしれない。今日司会をされている佐藤さんのように、仕事もないのに地方に移住者がきている。ということは、生活の実感そのものを求めている人がここにやって来ている、という視点が実は重要なのではないでしょうか。



次回「第3回 持続可能な地域づくり、もの作りとは 情報デザインの手法から読み解く」(Coming Soon)

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